
「ここ何か月か、私は家庭訪問を続けている。議員を辞めてから15年になるが、人々は私の活動を憶えていて、復帰を歓迎してくれている。」
彼は、政界復帰に導いたのは地球温暖化と住宅危機という2つの脅威だと説明した。
彼は1979年から25年間、新民主党の下院議員を務めた。議員になる前に女性との結婚歴と離婚歴があったが、1988年に同性愛を公表した初の国会議員となった。
外交では徹底した反米・反イスラエル・反中国と、親キューバ・親パレスチナ・親チベットで知られていた。自由党議員が9月11日を「アメリカ・デー」にする法案を提出したとき、彼は、1973年9月11日にチリのクーデターでアジェンデ政権が打倒されたことを記念し「チリ・デー」にする法案を提出した(どちらも否決)。
環境主義者としても知られ、ハイダ族の森を伐採することに抵抗し、禁錮14日の刑に処せられた。その後ハイダ族の養子となり、「ホワイト・スワン」のハイダ族名を与えられている。
1990年代には、医師の幇助による安楽死合法化に誰よりも早く取り組んだ。有名な筋萎縮性側索硬化症(ALS/ルー・ゲーリック病ともいう)患者スー・ロドリゲスさんの法廷闘争を支援し、彼女の最期(非合法だった医師の幇助による安楽死)に付き添っている。
1995年には新民主党党首選に有力な候補として出馬し、第一回投票をトップで通過した。だが、足切りされた3位のニストロム候補が“Anyone-but-Svend”(スベント以外誰でも)のスローガンを掲げていたため、最終的に勝ち目がないと見た彼は党首選を辞退し、アレクサ・マクドノーに党首の座を譲った。
彼はゲイの議員として、ヘイトスピーチの対象である「肌の色、人種、宗教、民族の起源」に「性的指向」を追加する法案を提出し、2004年に成立させた。
2004年4月、彼は6万4000ドルの指輪を盗み、起訴された。彼が双極性障害を患っていることに検察と弁護側が合意したため、彼は釈放され、社会奉仕活動をするという条件で前科がつかないことになった。
だが彼は議員を辞職し、その年6月に実施された総選挙に立候補できなくなった。代わりに彼の後援会で働いていたビル・シクセイが立候補し、当選した。なおシクセイは、当選前にゲイを公表した最初の議員となった。ロビンソンは2006年の総選挙に出馬したが、新民主党が躍進したにもかかわらず落選し、政界引退を表明した。
引退後は、同性パートナーのマックス・リバソン氏とスイスに移住し、エイズ・結核・マラリア対策世界基金のコンサルタントとして働いたが、65歳で退職し、近年バーナビーに戻って来たという。